「妹の姉」を読んで考えたこと

Twitterで評判になっていた無料公開中のマンガを読んで、ふーんと思ったので、考えたことを書き留めておこうと思います。

作品のタイトルは「妹の姉」で、作者は藤本タツキさんという漫画家さんなのだとか。あんまり漫画を読む方ではないので、今回の作品で知りました。画風は好きで、感じがいいタッチというか、すっきりかわいい印象でいいなぁって思いました。

ただ、内容にはちょっと「ふーん」と鼻白んじゃうところがあったので、そこを説明するために、どんな内容だと捉えたのか、私から見えたオハナシをまとめてみました。

 

 主人公は光子。
美術学校の3年生で、絵の道はあきらめて東京で就職することが決まっている。同じ学校に特待生の妹である杏子がいて、杏子が学校主催のコンクールで金賞を獲ったことが、お話の発端になる。

ある朝、光子が登校すると、多くの人が行きかう学校の玄関の目立つところに、明らかに光子がモデルになっていると分かる裸婦画が飾られている。煽り文句に「一糸纏わず全てを描かれ――…」とあるように、胸から生殖器のあたりまでがどーんと描かれる煽情的なポーズの作品である。

まわりの生徒は「ハダカの人だ…」「ふふふ!」「ご本人登場じゃん!」と、光子が掲示を取りやめるように訴えた教師は「自分の教え子のハダカなんてはじめて見たよ」と反応しているので、登場人物たちは全員それを光子のヌードであると認識している。
教師は「美術学校なんだからだ~れも茶化した目で見やしないさ」と言うが、生徒たちは描かれた乳首や乳房にコメントしているので、明らかに光子は杏子の作品から性的な価値をジャッジされている。

父親を始めとする親戚が「光子の描かれた絵」を鑑賞しに来て、絵と比較して光子の養子にコメントし、不快感と羞恥を感じる光子と、なんの反応も示さない杏子を含む一同で、光子が掲示を嫌がっている絵の前で記念写真を撮る。

光子は妹に同じ屈辱を味わわせると決め、杏子の部屋に押しかけ、服を脱ぐように命じてデッサンに取りかかる。

回想で姉妹の関係が明かされる。
杏子は姉をトレースしたがるタイプの妹で、光子が中1からやっている油絵を、姉と同じ高校に進学するために始めた。光子の助力のもと、杏子は特待生として入学する。光子は杏子に才能で負けていると考え、そのことにより姉妹関係が悪化した。

回想後、光子は教師から裸婦像の描かれた状況を知る。
杏子が姉の裸婦画を描いたのは、この教師の担当授業においてで、お題は「自分の目標」だった。

光子はデッサンを続けながら「妹は私の事を見続けていた だから妹は私のハダカを描けた」が、自分は妹を見ないようにしていたので、同じことができないと感じる。
また「教えなければいけない 妹よ ハダカとはこう描くものなのだ…と だって私は 妹の姉だから」と決意する。

卒業式の日、架け替えられた次の一年を飾る絵は、光子自身が描いた光子自身の裸婦像だった。ベッドの上でくねっとしていた杏子の作品とは違い、椅子に座って両手両足を突っ張るように広げるポーズを取っていて、乳房が小ぶりになるなど、現代日本的な美の条件からは表現が遠ざかっている。
光子が「次はもっと私をよく見て描きなさい」と言うと、杏子は「はい!」と返事をする。

光子は予定通りに上京したが、杏子は一年後に押しかけ同居しにやってきて、どうやら二人暮らしが始まる様子。
光子の「結局私は妹から離れることはできないのだ だって私は妹の姉だから」という述懐のあと、「姉妹は想い合い、分かち合う…」と煽りが入ってEND。

 

と、まぁ未成年者のヌードを中心に据えたオハナシになっているんですよね。取り扱いの難しいモノゴトなので、いろんな形で話題になっちゃうのも分かるなぁっていうのが最初の感想でした。

ネットをつらつらと見渡した感じだと、私もうわぁって思った通り、光子の裸体の取り扱いに関する指摘が多かったなって思いました。

この点については問題だらけですよね。もっと研ぎ澄まされた人が先にいろいろと書いていらっしゃるようなので、いろいろ見て回ると面白いと思います。私も追々「これちょっとアレでしょ」的なことを書くと思います。

 

でも感動してる人も多いですよね。
私の周りだと、特にアマチュアで絵を描く友人は、おおむね主人公への共感を示していたような気がします。
どうやらワクワクしたらしい方々の感想を拝見すると、どうやら私にとっては単なる「同意なしに描かれた未成年者の裸体」だった光子の裸体を、まず天才同士がぶつかる戦場として認識されている様子。

画家である妹が仕掛けてきた戦いの土俵に上がり、正々堂々と迎え撃とうとする姉の心意気だとか、あとは思春期に芸術というカタチで人間の美醜に魅せられた画家が、身近な存在への敬意を裸婦画という古典的なカタチに落とし込み称揚しようと試みる姿は、美術史に連なる一個の画家のタマゴとして非常にエモく心に迫るのだとか。

私も藤本タツキさんが狙った感動は、こういうところなんだろうな~って思うし、彼らの世界では燦然と輝く盛り上がりポイントなんだろうなぁって理解はできます。
共感じゃなくて、観察によってですけど。ちょっとした異文化交流だなぁ。

 

私が「ふーん」と盛り下がったポイントは、主に2つありまして、ひとつは「光子に対する性的な加害の矮小化」という問題で、もうひとつは「裸婦画をチョイスする必要が分からなかった」という疑問です。

 

まずは「光子に対する性的な加害の矮小化」から。

杏子ちゃんのやってること、アイコラやん。
アイコラってアイドルコラージュの略なんですけど、よくゴシップスターがポルノ写真の被写体と首を挿げ替えられて、まるでヌード写真が流出したみたいにウワサされてるじゃないですか。杏子がやったのって、創造力と画力で姉の架空流出画像を作成したようなものだと思ったんですよね。
私の好きな女優もアイコラ被害に遭って、そのことに深く傷ついていたのですが、それと似たような仕打ちを、裸体との接触が多い美術系とは言え、未成年者が受けたとなると、深刻な問題ですよ。加害1。

受けた被害の拡大を最小限に抑えようと、権威である教師に談判しに行ったのに、相手にもされない。言うに事欠いて「だめだめ一年間は絶対に飾られるんだ。本校の伝統だよ伝統」の上に、文句があるなら作者(加害者)である妹に言えとは如何なものか。
御立派な伝統とやらを覆すのに、被害者の訴えでは足りず、加害者の働きかけがあればメイビーだなんて、あまりにも残酷で、完全にイジメが発生しても力になってくれない先生そのもの。加害2

学校側が対応しないせいで、男女を問わず他生徒から光子へのセクハラが発生し、教師が掲示をとっとと中止していれば防げた、親族間での性的虐待が派生。加害3

光子の受けた被害を矮小化する教員からセカンドレイプを受けて、加害4。

しかも光子は受けた仕打ちを妹にも連鎖させようと、悪意をもって裸体デッサンを開始し、加害者に回ろうとするという展開は、あんまり好きな表現ではないけれど胸糞悪いと感じました。

このくだりについては、裸体を描かれた恥ずかしさではなく、妹への敗北を許さない画家のプライドが胸熱という意見も目にしたのですが、これには完全に同意できませんでした。
やがてそういう風に気持ちが変わったっぽい感じですけれど、少なくともデッサンのスタート時には「私の受けた屈辱その体に教えてやらあ」でしたし、杏子を前にして光子が言った言葉を要約すれば「あなたをモデルに醜い裸体を描いて公開し、嫌がらせを行います」となります。

芸術肌の天才姉妹なら、裸体を描いた絵を武器にして仲良く姉妹喧嘩することもあらあと言われれば、世界は可能性に満ちてますもんねと答えるしかありませんが、私は裸体を使った加害の連鎖が描かれてますよねとも主張します。

裸体ね、私も好きですよ。見惚れます。
でも裸体って、美しい宝石にもなるし、醜い凶器にもなるじゃないですか。
思いっきり好意的に杏子の作品について考えてみたんですけれど、この作品の中では以下の3つの見方ができると思うんです。

1.美術用のヌード
杏子が創造したもの。崇拝の念を裸体美で表す。日常から切り離された、神の美としての裸体。
2.個人のヌード
光子が盗まれたもの。他者に好き勝手されてはいけない、不可侵の個人的な存在であり、アイコラするなんてもってのほか。
3.ゴシップ的なヌード
見物に来た家族や、多くの学校関係者が消費したもの。他者の個人的な秘密をのぞき見して喜ぶ、興味本位で暴かれた裸体。
(2と3あたりを性的に消費すると、杏子の美術用のヌードもポルノになる)

落ち着けよ、ファンタジーだぜ。
被害者なんていないんだ。ステイクール。
っていう意見も出ているみたいなんですが、そんなこたあ知ってますって。残念ながら三次元に生きてることを日々実感してるオタク女なんですから、次元の壁についてはよく知っております。

そこじゃなくって、こういう「芸術」に関するオハナシは、殺伐とした三次元に生きる我らの仲間の「芸術」に対する接し方のお手本になる可能性があるのが危ういなって思うんですわ。
だってこの作品、有名どころから発表されてるんですよね。よく知らないんですけど。
つまり普段「裸体」の取り扱いに無自覚な層にも届くわけでして、ここでお勉強しちゃった子たちが、三次元に反応を応用しちゃう可能性は否定できないと思うんです。加害1~4みたいな反応を学習させちゃ、芸術との距離感を図っている青少年が気の毒です。こういう素材を扱うのなら、ヌード1とヌード2~3を切り離すという下ごしらえ(配慮)が必要でしょう。そこがないから生臭い。

 

さらに私には「裸婦画をチョイスする必要が分からなかった」というモヤモヤが残っているので、こっちの話にもお付き合いいただこうと思います。

姉は妹の才能に直面し、挫折した。
妹は姉を慕っているので、理想化された姿をリアルに描くことが出来る。
姉はそれに応えて、妹を上回る表現をすることができる。
姉妹は才能とお互いへの関心に満ちている。

OK、ハッピーエンドです。
でもなんでヌード?

裸体という表現が、人物の理想像を称揚するために用いられてきたという歴史は承知しているのですが、描き手が杏子というキャラクターであることには、ちょっと納得がいかないんですよね。
姉の後を追っていたいからっていう理由で絵筆を握った杏子の絵画歴が短いことは、作中の情報からハッキリしていて、さらにどちらかといえば天才肌に描かれており、美術史を学んでいる描写は一度もありません。
短い作品なので仕方ないかも知れないですが、少なくとも杏子は「ぽっと出の才能」という扱いですし、卒業後も絵ではなく姉を追っているところを見ると、絵に対する愛は描写されていないと考えています。
その杏子が実の姉を裸婦として描く…ふーん。
仲の良かった姉を描くのに、その趣味や嗜好、思い出を恐竜している妹が、それらすべての情報を剥ぎ取ったうえで、煽情的なポーズの裸婦として描くの…かぁ、ふーん。

あまりに理想化され過ぎていて、恥ずかしいレベルにまでなっている絵が、公衆の面前に晒されるという展開は、お話のスタート地点になるエピソードなので、必要不可欠ではあります。でもそこに敢えて裸体を置く必要性は、私にはちょっと分からなかったなって思いました。
理想化し過ぎた絵で光子を辱めるなら、たとえば「絵を描く人」としての側面を強調して、大げさな衣装や背景で飾り立て「画伯」風にしたり、圧倒的な影響力を持つ女性の象徴として、女王やアイドルのような衣装で描くという手もあったんじゃないかなぁ。
裸体の方がセンセーショナルなので、読者の目をキャッチするには都合がいいですけど、芸術との関係ではなく姉との人間関係を中心にできている杏子というキャラクターのことを考えると、あの裸婦画はマンガの作者という神の「これが描きたい」が感じられるようで、ごめんなさい深読みしすぎで疑心暗鬼です。絵は可愛かったです。

でもやっぱり光子の「次はもっと私をよく見て描きなさい」に杏子が「はい!」と応えるくだりを感動の中心に据えるのならば、光子は杏子にいつでも見えていた普段の自分からにじみ出る、もっともよく妹が見てきた(でも作品には落とし込めなかった)あるがままの、日常で人に見せている姿を、妹を上回る実力で美的に示した方が効果的だったんじゃないかなぁ。

それに何より、光子は自分をモデルにした裸体を隠したがっていたんだけら、そこは戦うべきフィールドじゃなかったと思います。

やっぱりこの作品、もっと楽しめた。
私には分からなかったけれど、裸婦画をオハナシの中心に据えるのならば、外野からのセクハラは遮断するべきだったと思います。ひどいノイズで天才同士が絵筆で斬り合う剣戟の響きが耳に届かないし、せっかくの美しい2つの裸婦画の劇的な効果も、私には届いてくれなかったのが残念なんですよね。
「結局私は妹から離れることはできないのだ だって私は妹の姉だから」
妹の憧れる姉でいたい光子と、姉に憧れる妹でいたい杏子の健気な戦いは、きっと魅力的だったんだろうな。

とか言ってたら、もう夜の3時じゃないですか。
いろいろ吠えちゃいましたが、寝言なんで可能なら許してください。

 

私を値切らないで

 先日、Twitterで鞄職人のゆうやさん(@kabababaaan)という方のツイートを見かけて、思わず膝を打って「ほんまそれな」とリアルに呟いた。学生さんからの「あなたの鞄が欲しいんだけど、価格が高すぎるので負けてくれ」という旨のコメントを受け、それを「職人が絶滅していく理由」のひとつだとして、軽快に拒否した姿勢が清々しい。断るときって、つい「申し訳ないんだけど、それはムリかな・・・」みたいなクッションを入れちゃいがちだけど、ゆうやさんはそういうのを抜きで「買い叩かないで」って言い放った上で「死ぬほど欲しいなら買って欲しい」って購入を勧めてらした。その自信がいい。気持ちいい。

 なにかステキなものに出会って、それを欲しいと思ったとき、目の前にそれを作り出した人物がいたとして、彼/彼女に「あなたの作ったモノは、あなたの決めた価格に見合わないけど、私はそれが欲しいから安くしてください」なんて、恥ずかしくて言えないと思う。
 苦学生は世に多いし、鞄に数万円を出すっていうことに、ものすごい勇気を要する若者っていうのは、恐ろしく多い。借金を背負って勉強してる若者のストレスっていったらないもんな。でも、それとこれとは話が違う。
 お金が無いからって、他者の仕事の成果を貶めることは許されない。残念だけど、じぶんから値切らなきゃいけないなら、そのお店のお客になるには、まだ準備が足りてないんじゃないだろうか。

 今、Twitter上で広く響いた「私の仕事を過小評価しないで」っていう声の主は鞄職人さんだったけれど、これは職人さんやアーティストさんだけの問題じゃないと思う。職人技だけでなく、なにに対しても敬意を払わない人や団体があまりにも多い。それは私たちがあまりにも値切られ慣れているからだと思う。値切られ慣れてるから、値切ることにも抵抗がない。これってよくない。
 サービス残業、みなし残業。定額使い放題の労働力。
 敬意を払われないまま、労働を値切られ続ける「ふつうの日本人」の姿って、あまりにもふつうじゃない。その異常なふつうにもたどり着けないで、もっと酷い搾取を受けている層も膨らんでいるのが肌で感じられる。
 話題の介護や保育の分野からも声が上がっているけれど、事態は改善に向かって動いているんだろうか。そんなもの家の人がやればいいじゃないっていう意識も根強いけれど、それってプロの存在を軽視してないだろうか。
 なんで国語の先生や数学の先生が、放課後に行われるスポーツの練習まで監督しなきゃいけないんだろう。かつてその道を志して、大成できなかったけれど、指導者たるに値する能力を有しする在野の人がたくさんいるだろうに。
 通訳に観光ガイド。語学を習得するのには、よほどの才能かラッキーな環境に恵まれないかぎり、たくさんのお金と時間と努力が必要なのに、いざ使えるところまで届いたと思えば、周りには「そんなのお金にならないよ、ボランティアで十分だもの」っていう空気が満ちている絶望感。
 私はオタクなので、アートの界隈にもそういう話があるのはよく聞く。賃金だけでなく、睡眠時間まで与えられないまま、心身を壊していったり、疲れから事故を引き起こして死傷者を出してしまうような働き方を強要する業界もある。
 私たちは値切られている。
 だからせめて、仕事が軌道に乗っている人には、ぜひ「私を値切らないで」って声を上げて欲しい。私はそういう誇り高い仕事人の姿を見たい。自分のやっていることに、きちんと価値を感じている人の自尊心の輝きが見たい。

 じゃあ、オマエはセールで買い物すんなよ、なんて意地の悪いことは言わないで欲しい。私だってお金のない若者だし、洋服はだいたいファストファッションのお店で、お値打ち価格になってるときに買う。お金が無いんだから仕方ない。それに大手ファストファッションにはセールありきのビジネスモデルがあるはずだろうから、そういう風にできてるんだと納得できる。たとえ大きな搾取の渦に巻き込まれているとしても、私は聖人じゃいられないので、自分の生活をそれなりなものに保つためには、いくらかは荷担するしかない。
 でも、明らかに従業員へ無茶をさせていそうな格安ナントカには、気が付く限り手を出さないようにしているし、特別な機会に正当な対価を払うことはためらわない。惚れたものがあれば、それを作ってくれた人の価値観に従って、気持ちよくお金を払いたい。どうしても欲しい本は書店でハードカバーのものを買うし、めったに買わないアクセサリーは、自分がお客さんになれそうな作家さんを探して、双方納得の価格で買う。
 焼け石に水かも知れないけれど、自尊心は些かなりとも回復する。

 安い労働力である私たちにとって、1万円って大金だ。2万円の鞄が高いか安いかと言われたら、私は反射的に「高い」って答えてしまう。でもその前に「私には」の一句を忘れちゃいけない。私には高いけれど、売り手側にはそれが正当な価格なんだったら、それが全てなんだと思う。背伸びしたければ貯金をする。世知辛い世の中、私がお客さんになれるようになる前に、職人さんがくじけちゃうかも知れないから、SNSはこまめにチェックして反応する。新作情報をキャッチするのも楽しいから、すぐに買っちゃうより長く楽しめると思えば、お得かも知れない。
 とにかく、お店はお客さんを選べた方がいい。私だって、お客さんは選びたい。可能なら雇い主だって選びたい。どんな人に、企業に、私という労働力を提供するか、選べるようになりたい。私を値切ろうとしない、私を搾取しない人と働いて、私を上手く使って儲けてもらいたいし、そのぶんお金をもらいたい。そしてそのお金でモノや経験を買って、家族や友だちといっしょに人生を楽しみたい。
 そんな気持ちをキープするために、私は今日も定価で買った指輪をつけている。高いモノじゃないけれど、美しい。作家さんのセールストークをしっかり聞いて、直接買った。だから私はこの指輪のチャームポイントや、作品に対する彼女の熱意と努力を知ってるし、作家さんは買い手である私が彼女の作品を「価値がある」と判断したことを、私の反応と売り上げ金額で知っている。私はお金といっしょに敬意を払った。これって感動的だと思う。値切っちゃ買えない感動だってある。
 日本には素晴らしい職人さんがたくさんいるらしいけれど、彼らの技術はちゃんと継承できてるんだろうか。大学の研究者が資金不足にあえいでいるけれど、これから日本は世界に売り込めるなにかを発見し続けられるだろうか。お金と敬意を払われない仕事に就きたがる人はいないんだから、自分の持たないものを誰かから得ようと思うなら、相手が必要としているものを提供しなきゃいけないはず。
 小さいところから大きいところまで、値切りの連鎖がどんどん解けていけばいい。